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遂に初音ミクが、地上波に登場するようだが、私は初音ミクの話はもう少し先になる(というか現時点では全くやる気がないのだが)と思っていたが、……………………………
今、イルミナティNWOが、レプティリアンに続き、人工知能を人類の新たな脅威としてセッティングしようとしている。
《俺達は悪くないんだ、爬虫類型宇宙人に脅されやむを得ず人間を生け贄にするようなことをしてるんだ。俺達には更に大ボスがいるんだ!それが爬虫類型宇宙人だ!俺達は悪くないんだ、コンピューターが意思を持って勝手なことをやりだしたんだ》
……実にバカバカしい。
このレプティリアンというのは、80年代に入ってから唐突に出てきた話なのである。あの「V」というプロパガンダ番組を筆頭に。
おそらくは、日本のカメンライダーのショッカーでも参考にしたのだろう。
「いいか、お前ら、こうやって俺達はこの星の危機を伝えようとしてんだぞ!これはフィクションを装った本当の話なのだ!気づけよ!」とでも言わんばかりに………
所で、あのデービッド・アイクというのはイルミナティのエージェントである。
ユースタス・マリンズらが暴いた深い秘密に同調しつつ最終的にバカバカしい世界に引っ張りこむ- それがあいつのミッションだ。
私がなぜこのレプティリアンの話がバカバカしいのかというと、そもそも爬虫類は変温動物である。暑い夏にも寒い冬にも活動が止まってしまうのだ(笑)。
爬虫類がある程度ヒューマノイド形に進化することはあったとしても、文明を築くなどということは絶対にあり得ない。アマゾンの半魚人のようなものは宇宙のどこかにはいるだろう。しかし、その知能はせいぜい手長猿とかマンドリルとか、そういうレベルを超えるとは考えにくい。
更にもう一つ重大なことは、この話を作った偽ユダヤ人達は、聖書の影響からか(歳を経た蛇等の)、爬虫類をもって悪魔の原型と考えている節がある。
これは非常に幼稚な発想だ。ケツ青ぼくちゃんの発想だ。
自然界の生物に悪魔は存在しない。
獰猛なライオンもホオジロザメも百足もサソリもゲジゲジも、皆それぞれこの地球の環境を保つために必要な役割分担があって存在してるのである。
例えば人間にとっては邪魔なだけな蝿や蚊にしても、死骸の清掃やドブ掃除をやっているわけで、特に蚊の幼虫のボウフラは人間が手に負えない淡水中の暴悪なバイ菌を(…そのバイ菌にも相応な役割分担があるわけだが)退治してくれているわけで、もし、この世からボウフラがいなくなってしまったら、人間は、その暴悪なバイ菌を退治するために水そのものを破壊しなくてはならなくなる。
聖書の文化圏では悪魔=野獣(beast)という概念が蔓延っているが、これは酒顛童子のような本物の悪魔と戦ってきた日本人から見て非常に滑稽なものだ。(日本の鬼についてはまた別の記事で書く)
ライオンとて子育てをするだろう。ライオンが獰猛なのは、そういう性質でなければ草食獣に草という草が食いつくされてしまうからである。
役割分担として、そういう性質を地球(自然界)から与えられてるわけである。何も悪い生き物ではない。
爬虫類も全く同じ話である。無表情に兎を飲み込む大蛇、そこには慈悲心の欠片も感じられない………と言った所なのだろうが、そういう性質の生物も、環境の中で必要があって存在してるわけである。
何があっても絶対に躊躇してはならない、そういう性質の生き物も自然界においては貴重な存在であろう。
この宇宙の生物は皆、無量無辺の大慈悲によってその命を支えられている。心臓は本人の意思、能力で動いているわけではない。眠っている間にも呼吸は行われ命が絶たれることはない。誤って作ってしまった傷は本人が頑張って治すわけではない。本人の意識のない眠っている間にも、体内の複雑なシステムが車輪のように働いて回復へと誘うのである。細胞レベルの身体の一つ一つの機能、法則はいかなる人工のメカニックにも優る複雑にして誤謬のないものである。イエスキリストは聖書の中で、「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と語っているが、悪人だからといって、擦りむいた傷がそのまま腐っていくという事はない、必ずカサブタとなり回復へと向かう。悪人だからといって風邪をひいたらそのまま死んでしまうという事はない。必ず回復に向けて身体のシステムは働いてくれる。
外の世界に目をやると、灼熱の日を雲は遮り、水は滞ることなく潤いを与え風は植物の種子を運び太陽は光合成によりあらゆる命の元となる。人間が戦争を起こそうが核爆弾を炸裂させようが、公転自転の正律は守られ、365日が狂うことはない。
人間が泥棒をしようが殺人をしようが、どんな悪巧みをしようが、それが原因で36.5度の体温が狂うということはない。
このように見ると、地球の公転自転を司る力も人間の体温の正律を維持する力も同じ一つのものである事に気がつく。
ただそれが、自分にとって内側にあるか外側にあるかという違いでしかない。すなわち、脈打つ鼓動も寄せ返す波も同じ一つの力によるものだということである。内と外とが連携をとってあらゆる生命を支えている。
もし、あなたが自らの意志と能力によって例えば呼吸における電子伝達系やクエン酸回路などのシステム、そしてその複雑な労働を体内全細胞において自らの意思と能力によって行っているのであるならば、“俺の体は俺の物だ”と胸を張ってもよい。しかし、宇宙のどこを捜してもそのような者は存在しない。
自分の体は自分のものではない。
そう、我々はものを考えることと筋肉を動かすこと、言葉を話すこと(ーこれを身口意の三業という)だけを考えていればよいのである。
ゆえにそこには、巨大な意志、願いがかけられているということを知るべきである。
“…めんどうなことは全てみてやる。思うがままに生きてみろ。だから一日も早く迷妄の世界を卒業し真実を悟れ”という巨大な存在の発する願いを。― その存在については何と表現してもよい。『偉大なる大自然の力』とも『天の御父』とも好きなように各自一人一人が呼べばいい。要するに真実は一つであり名称などはどうでもいい。「我々の体もスターダストだ」と言った人がいたが、何億年時を遡れば太陽も地球も火星もドロドロの渾然一体だったわけで、ただ時の経過によってこのような姿に別れたにすぎない。人間も動物も植物も、その辺の石ころも精粗の差でしかないわけである。
すなわち、われは彼であり、彼はわれである。時を遡らずとも、我々自身の体を作っている原料は何なのかと考えていくと元々一つの同じものであることに気がつく。人間の体を作る主食である米や麦は何によってできているのか?それは、土と水と空気と太陽の光である。果物を実らす樹木は何によってできているか、それは土と水と空気と太陽の光である。魚は何によってできているのか、大魚は小魚を食い小魚はプランクトン等を食い、そのプランクトンの命の糧は光合成である。要するに土と水と空気と太陽の光である。すなわち、我々の正体は何であるかと源を尋ねれば、一つの太陽であり、一つの地球の土と水と空気である。この世に存在する生命は皆同じ一つの力によって支えられていると同時に、その原料もまた同じ一つのものだということである。
また、水は宇宙のどこにあっても水は水である。地球の水だけが優しいわけではない。火は宇宙のどこにあっても火は火である。何も地球の火だけが偉大なわけではない。
これらの事を全ての人間がしっかりと認識した時、人種偏見差別は夢と消えるであろうと思う。人種の違いとは、中国の森林とヨーロッパの森林が雰囲気が異なり、樹木草花の姿が異なるのと同じ事で、何億年という歳月が作り上げた気候風土等の違いが人間に転化した姿であると考えることができる。(よく、人種の違いは、実は大昔それぞれ別の惑星から円盤に乗って移住してきたためなのだという内容のことを唱える人がいるが、いずれにせよ容姿風貌の形成は環境が与えた影響に他ならない)
全て命ある者は、内と外との大慈悲によって支えられている。
慈悲に支えられている生物がその慈悲の心を理解できないわけがない。これを“一切衆生悉有仏性”という。
密教の教理を図式化したものに胎蔵界曼陀羅という図像がある。あれは何を顕したものかというと、一人の人間の心の状態を仏や魔王や餓鬼の姿で象徴的に表現したものである。中央は宇宙万物の命に備わった無量無辺の大慈悲が、そのまま手足のある人間の姿になってみせたという存在である。それが外へ向かうに従って方便の姿へと変じ、更にその方便の姿が、まさしくその方便の姿でもって導かれる外道迷妄の世界の住人の姿へと変じている。しかし、その最も外側の餓鬼も魔王も、中央の慈悲の体現的存在から切り離して存在するわけではない。生命の価値そのものは誰にあっても不変で平等なものだからである。
先に書いた電子伝達系や解糖系などという命ある者の全細胞で働く理路整然とした厳粛な法則は、いかなる者にも宿っている事である。もし、それらがないとしたならば、立つことも動く事もできない。
喩えていうならば、筆舌に尽くしがたい迷惑暴走運転を行う無法者がいたとする。しかし、その迷惑暴走あるいはフラフラ運転も、理路整然とした厳粛な車のメカニックがあって成り立っている。迷惑暴走は、その事自体が単体で成り立つわけではない…
よくキリスト教徒は、「イエスキリストは、神のひとり子であり特別優れた存在で、他の人間は劣った比較にならない者」といった内容の事を唱えるが、それはどこかの誰かが勝手に言ってるだけの話である。聖書を読めばわかるが、彼自身はそんなことは一言も言ってない。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と繰り返し言っているではないか。「 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」これを翻訳するとー「私を媚びへつらうことによっていい所へ行けると思ったら大間違いである。正しい行為を行った者は愛される。機嫌をとることでうまくすり抜けようとする者は嫌われる。論ずるまでもない話である。偉大な大自然の意志を正しく理解し、それに沿った生き方をする者こそが私の家族である。」となるであろう。


更に彼は、“岩を土台として家を建てなさい。砂の上に家を建てる愚か者になるな”と言っている。要するにこれは、上べっつらではなく、中身を正しく理解する事こそが重要なのだと言っているわけである。イエスキリスト一人が神の子なのではない。全ての命は一つであり、そして神は一個一個の細胞に宿っている。生物が生きているということ自体が奇跡の塊である。ただ、心が横道迷路に迷い込んでいるか、磨き上げられ真理に深く達しているかという差に過ぎない。つまり、ウルトラマンに登場する破壊の限りを尽くす怪獣もそれを退治するウルトラマンも科特隊の隊員も逃げまわる市民もストーリーに登場する少年も、皆一人の人間の心の状態を描いたものに他ならない。 もちろん制作者達はそんなことは意識していないだろう。しかし、物事に真剣に必死に真面目に取り組んでいると、本人が意識しないもっと深い所の真理につながっている場合が多々ある。これを“不生不滅と生滅と和合して一にもあらず異にもあらず”という。大雑把に説明すると、不生不滅とは人間の心の奥にある永遠不変の真理の本体、仏種、仏性、如来蔵などという。心の本体と言ってもいい。(※またこの不生不滅は、時間と物質の関係でもある)それに対して生滅とは、迷妄にとらわれ条件によって変化する、移ろいゆく虚しいものと表現することができるかと思う。この世の人間の日常の心の状態を指す。それが和合し渾然一体となることによって、虚しいものの中にもそれを超える真実が光るという程の意味である。
…………………………
電子伝達系ー 『解糖系とクエン酸回路でできた水素原子が、水素イオンと電子に分かれ、その電子だけを電子伝達物質がうけ渡しして、34ATPを生産する過程。
電子と水素イオンは最終的に酸素と結びついて水になる。』ー …
誰か自らの意志と能力によって、“電子だけを電子伝達物質が受け渡しする”という作業を、体内全細胞において行っている者がいるか?
誰か自らの意志と能力によって、34ATPを生産している者がいるか?32でも68でもだめなのである…
私が言ってるのは、要するにそういう話である。
シンセサイザーの作曲家の喜太郎氏の作品の一つに「天竺」というアルバムがあり、その中の第三楽章“マウンテンストリーム”と第四楽章“祈り”という二曲の曲を、時計の秒針を見ながら脈に手をあてて聴いてみていただきたい。
マウンテンストリームは脈打つ鼓動のサウンドを軸に内側の世界の労働を(…脈打つ鼓動、流れる血液といった感じである)、祈りはそれに対して寄せ返す波から風の音、流れる雲を想起させる外側の世界の労働をそれぞれ表現している。
まさに「内外の五大(地水火風空)共振す」である。
(※私と喜太郎さんは面識がない。従って喜太郎さん自身はそういうことは意識せずに作曲したはずである)
思えば我々の体は我々の命をわがままを支えるために、どれほど苦労をしていることか………
(この天竺は、他の曲も非常に意味が深い。
ぜひ、買って聴かれることを強くお薦めする)
つまり、悪魔とは何か?と言うと、森羅万象の正律に反する者の総称である。
爬虫類やbeastが悪魔なのではない。
何が正しいか、何が邪か、それがはっきりとわかっていながら邪の側、悪の側を意図的に取ろうとする者、それを意図的に半永久的に継続させようとする者。
それが本物の悪魔だ。
自然界の正律に反する同性婚、臓器移植は悪魔の所業である。
人間ばかりが『悲しいから嫌だ』『辛いから嫌だ』
それを延々と受け入れ続ければ最後はどういうことになるか?
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