慰安婦アメリカ公文書をよく読むと見えてくる売春婦とブローカーの実像
- 2014/08/10
- 17:34



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慰安婦への尋問のアメリカ公文書を読むと、いくつかの疑問が頭をよぎる。
まず、最初は、慰安婦の中で元々の売春婦はごく僅かで、大半の者は楼主の口車に騙されて連れてこられた普通の女性であったという所。
これはウソであることがすぐわかる。
「お前は、どういう経緯でここへ来た?もともとは何をしていた?」
「はい、私は元々売春婦です。今回は稼げそうな募集の話を知ったので来ました。」
などと本当のことをまともに答えるわけがなかろう。
「何か軍のお手伝いをすれば稼げると聞き、借金があるので来ました。こういう仕事の内容と知ってきたわけではありません。」
ほとんどの者は、このように答えたであろう。それはそれで別に至極当然な話といえる。
そうでなければ、《彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。》 ……などという状況がどうして成立するのか???
あっちでこっちで『私はこんなことをさせられると聞いてここへ来たわけじゃないんだ!話が違う!』と大騒ぎになり、とても“6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した”なんてことが平穏無事に済むわけがないではないか。
軍の管理者に楼主が再三再四呼び出され、《そういう手段、方法で集めた者は採用できない。というより、お前のような者は逮捕せよと通達されてる》という話になり、犯罪によって集められた慰安婦は解放せよという流れになっていたはずだからである。
ところが、どうしたことか?そうならずに、慰安所が存続したということは、どこかで誰かがウソをついているということである。
……《尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準から いっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。》
……私は家業で某をしていました、〇〇の農家で働いていました、〇〇を作って売っておりましたが借金で家計が苦しくなり……この募集に騙されて来てしまいました……
普通に話せばいいではないか(笑)
売春婦ではない騙されて連れてこられたと言っておきながら、「ではお前の仕事は何だ?」とイザ訊くと、仕事のことを話したがらないとは何をか言わんや。
全く理由のない話である。
―――――――――――――
それと、この公文書における最大の関心事、疑問点は、その“楼主”と軍はどういう親密度であったのか?という所であろう。
楼主については、次のような記述がある。
-以下転載-
ソース
題: 東南アジア翻訳尋問センター(SEATIC)心理戦尋問報告 第二号
日時: 一九四四年一一月三〇日
著者: 東南アジア翻訳尋問センター監督官 アメリカ陸軍歩兵大佐 アレンダー・スウィフト
和訳: 吉見義明『従軍慰安婦資料集』(大月書店1992/11/27 isbn:4272520253) p.453
解説
吉見義明による「従軍慰安婦と日本国家 第8章ビルマにおける慰安婦・慰安所」『従軍慰安婦資料集』p77-79を参照せよ。
報告書に登場するコードネームM739(慰安所楼主)は”キタムラエイブン”という人間であることが判明している。1997年に”キタムラエイブン”は取材をうけ、その内容は公表されている。キーワード"Japanese Prisoner of War Interrogation Report No. 49."の関連取材記録の項を参照せよ。
SEATICは日系アメリカ人で構成された尋問のためのチーム。(
)

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和訳(一部)
以下資料の一部を掲載した国立でむぱ研究室櫻分室より転記。参照元は吉見義明『従軍慰安婦資料集』とのこと。
p458
9 前線地域における日本軍慰安所
注
以下の記述は,CSDIS(I)において行われたM739の尋問,ならびに戦時情報局によりレド捕虜収容所において行われた朝鮮人「慰安婦」(20名)にたいする尋問(1944年9月21日付報告)に基づくものである.
情報提供者
1944年8月10日,ワインマウ付近において妻および20名の陸軍慰安婦とともに捕虜となった民間人の慰安所経営者M739.
M739と妻と義姉(妹)は,朝鮮の京城で料理店経営者としてかなりのお金を稼いでいたが,商売が不振に陥ったため,より多くの金を儲ける機会を求めて,朝鮮からビルマへ「慰安婦」を引き連れて行く許可を京城の陸軍司令部に申請した. この捕虜の言によれば,その示唆は陸軍司令部から出たもので,朝鮮に在住する何人かの同じような日本人「実業家」に打診された.
M739は,朝鮮人未婚女性22人を買い受けたが,彼女らの両親に対する支払額は,それぞれの性格,容貌,年齢に応じて300円から1000円であった. これら22名の女性の年齢は,19歳から31歳であった. 彼女たちは,この捕虜の独占財産となったのであり,軍は彼女たちの人身売買からは何らの利益も得なかった. 朝鮮軍司令部は,日本陸軍のあらゆる司令部宛ての書面を彼に渡したが,それは輸送,食料の支給,医療など,彼が必要とするかもしれないすべての援助を差しの
p459
べるよう,各司令部に要請するものであった.
M739とその妻は,料理店の経営を義姉(妹)に委ねたうえで,1942年7月10日,買い受けた女性22名を引き連れ,703名の女性(すべて朝鮮人)と90名ほどの日本人男女(ほからなぬ彼と同じように人格低劣な連中)の一行で釜山を出航した. 彼らは,7隻の護送船団を組み,4000トンの客船で航行した. 無料の渡航券が軍司令部から提供されたが,渡航中のすべての食事の代金はこの捕虜が支払った. 彼らは台湾とシンガポールに寄港し,台湾ではシンガポールへ向かう女性が新たに22名乗船し,シンガポールで全員が別の船に乗り換え,1942年8月20 日にラングーンに到着した.……-後略-
-転載ここまで-
―――――――――――――――
このキタムラエイブンなる人物は、……妻と義姉(妹)は,朝鮮の京城で料理店経営者としてかなりのお金を稼いでいた……とのことで、日本人であったとしたら和食料理店という話になるわけで、それ自体が非常に考えにくい話で従って創氏改名朝鮮人であることは疑う余地があるまい。(“同じような「日本人実業家」”についても)
上記文書で興味深い記述をいくつか挙げるとまず、
〇慰安婦の募集の大元は日本の陸軍司令部であったということ。
〇日本陸軍は、輸送,食料の支給,医療など,彼が必要とするかもしれないすべての援助を差しのべるよう手配し厚遇したということ。
〇軍は彼女たちの人身売買からは何らの利益も得なかったということ。
(※ここ非常に重要な所。軍と楼主が袖の下で繋がるような関係にはならなかったと、他ならぬ楼主自らが吐露していたのである……)
そして、これらの状況には次の伝令が被さってくる。
…日本軍は、陸軍省が1938年3月4日に『軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件』と題する命令書を発令した。
「(婦女子を)不統制に募集し社会問題を惹起する慮あるもの(略)募集の方法誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くるものある等注意を要す(略)周到適切にし其実施に当たりては(略)警察当局との連携を密にし(略)社会問題上遺漏なき様配慮せよ」
つまり、これらの資料、記述からどういう話が見えてくるかというと、慰安婦として応募してきた者はほとんどが自らの意思であり、騙されて連れてこられた者、誘拐された者は圧倒的に小数であり、楼主は日本軍が堅く賄賂に応じない性格であるため、常に「合法的で問題はない」という説明に躍起になっていたのであろうということである。
参考引用図書-
日韓併合の真実(水間政憲著-徳間書店)
9 前線地域における日本軍慰安所
注
以下の記述は,CSDIS(I)において行われたM739の尋問,ならびに戦時情報局によりレド捕虜収容所において行われた朝鮮人「慰安婦」(20名)にたいする尋問(1944年9月21日付報告)に基づくものである.
情報提供者
1944年8月10日,ワインマウ付近において妻および20名の陸軍慰安婦とともに捕虜となった民間人の慰安所経営者M739.
M739と妻と義姉(妹)は,朝鮮の京城で料理店経営者としてかなりのお金を稼いでいたが,商売が不振に陥ったため,より多くの金を儲ける機会を求めて,朝鮮からビルマへ「慰安婦」を引き連れて行く許可を京城の陸軍司令部に申請した. この捕虜の言によれば,その示唆は陸軍司令部から出たもので,朝鮮に在住する何人かの同じような日本人「実業家」に打診された.
M739は,朝鮮人未婚女性22人を買い受けたが,彼女らの両親に対する支払額は,それぞれの性格,容貌,年齢に応じて300円から1000円であった. これら22名の女性の年齢は,19歳から31歳であった. 彼女たちは,この捕虜の独占財産となったのであり,軍は彼女たちの人身売買からは何らの利益も得なかった. 朝鮮軍司令部は,日本陸軍のあらゆる司令部宛ての書面を彼に渡したが,それは輸送,食料の支給,医療など,彼が必要とするかもしれないすべての援助を差しの
p459
べるよう,各司令部に要請するものであった.
M739とその妻は,料理店の経営を義姉(妹)に委ねたうえで,1942年7月10日,買い受けた女性22名を引き連れ,703名の女性(すべて朝鮮人)と90名ほどの日本人男女(ほからなぬ彼と同じように人格低劣な連中)の一行で釜山を出航した. 彼らは,7隻の護送船団を組み,4000トンの客船で航行した. 無料の渡航券が軍司令部から提供されたが,渡航中のすべての食事の代金はこの捕虜が支払った. 彼らは台湾とシンガポールに寄港し,台湾ではシンガポールへ向かう女性が新たに22名乗船し,シンガポールで全員が別の船に乗り換え,1942年8月20 日にラングーンに到着した.……-後略-
-転載ここまで-
―――――――――――――――
このキタムラエイブンなる人物は、……妻と義姉(妹)は,朝鮮の京城で料理店経営者としてかなりのお金を稼いでいた……とのことで、日本人であったとしたら和食料理店という話になるわけで、それ自体が非常に考えにくい話で従って創氏改名朝鮮人であることは疑う余地があるまい。(“同じような「日本人実業家」”についても)
上記文書で興味深い記述をいくつか挙げるとまず、
〇慰安婦の募集の大元は日本の陸軍司令部であったということ。
〇日本陸軍は、輸送,食料の支給,医療など,彼が必要とするかもしれないすべての援助を差しのべるよう手配し厚遇したということ。
〇軍は彼女たちの人身売買からは何らの利益も得なかったということ。
(※ここ非常に重要な所。軍と楼主が袖の下で繋がるような関係にはならなかったと、他ならぬ楼主自らが吐露していたのである……)
そして、これらの状況には次の伝令が被さってくる。
…日本軍は、陸軍省が1938年3月4日に『軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件』と題する命令書を発令した。
「(婦女子を)不統制に募集し社会問題を惹起する慮あるもの(略)募集の方法誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くるものある等注意を要す(略)周到適切にし其実施に当たりては(略)警察当局との連携を密にし(略)社会問題上遺漏なき様配慮せよ」
つまり、これらの資料、記述からどういう話が見えてくるかというと、慰安婦として応募してきた者はほとんどが自らの意思であり、騙されて連れてこられた者、誘拐された者は圧倒的に小数であり、楼主は日本軍が堅く賄賂に応じない性格であるため、常に「合法的で問題はない」という説明に躍起になっていたのであろうということである。
参考引用図書-
日韓併合の真実(水間政憲著-徳間書店)
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