進化論最終決着②
- 2014/10/14
- 01:09

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この世に生を受けた最も原始的な生命は、先ずは生き続けるため生き残るために己れの周囲の様相、周囲の環境を少しでも正確に把握しようとに努める。
当然のことである。
目、耳、舌、鼻はその結果の最終的産物と言える。
そして更には、自在に周囲を操れるようにと手と指とを発達させていくわけである。
この無明(根元的無知)を脱して明(わかっている状態)へ至る一連の流れ、生物の“あがき”を釈迦は“行”と言ったわけである。
ただ、このように言うと、「ちょっと待て、ミミズは何億年も前からミミズではないか?ミミズは耳や目を欲してるのか?これから何億年かすると耳や目ができるのか?植物プランクトンとて、大昔から植物プランクトンのままではないか?」
このように言う人が現れると思われるが、当然の話、「ああもうこれでいいわ、外の世界を感受する器官は必要ないわ」 という所に定着したものは、そこにとどまり続けるだろう。
しかし、なんと表現するか…“生命体の基本的な進路、指針”としては、より正確に、そして遠く広く深く自分の周囲を感知できた方がよいに決まってるわけである。
つまり、人間の存在とは、日立の「この木何の木」を地球の全生物に例えると、一番頂上にある一本の枝に相当する。
全ての枝は皆、少しでも太陽を目指そうとするが、そこまで頑張る必要がないと判断したら低い場所にとどまるわけである……
魚類が両生類となって丘に上がってきたのは“このままでは水の中にいると終わってしまうぞ”という何か環境の変化、突き上げがあったことを語っている。

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