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先の記事で紹介した、リンク記事のブログ主さんが、非常に重大な指摘をしておられるので、改めて紹介させて頂きます。
BBの覚醒記録。無知から来る親中親韓から離脱、日本人としての目覚めの記録。さんより-
-以下抜粋-
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「日本は悪い国、酷い国でした」と宣伝するための情報センター設置!
守らねば、それを材料に韓国はじとじと、日本を強請りにかかります。
軍艦島には朝鮮人労働者たちをもてなすための、女郎屋「吉田屋」があったのに! どこの誰が強制的に駆り集めた労働者に女性をプレゼント、その女性たちに支払うに足る給料を渡しますか?
それに、日本政府が登録申請したのは、明治初期から1910年まで!!
朝鮮人徴用工と全く関係ない期間じゃないか!!
朝鮮人、全く関係ないじゃないか!!
戦時徴用を強制と言い換えられる隙を作ったバカ糞女。
猿なみの脳しかないのでしょうか。
大体、慰安婦の捏造も日本側のバカ糞男や女達が毅然と
対応しないことを端緒に根付いてしまい、今それをひっくり返すのに
どれだけ、「民間が」苦労しているか!!
恥を知れ、佐藤地!!
あなたの残した負の発言に、また次世代に日本を担う子供たちが
傷つけられる。
男は真実で勝負しろ、韓国ユン・ビョンセ外交部長官殿 《遊廓の存在拡散希望》
…慰安所付きの強制労働なんて、ないっしょ。軍艦島。 《大拡散希望》
「吉田遊郭」っての。図で、5と6のとこ。
2棟も。朝鮮人専用遊郭。 (※添付画像1枚目)
ほら、奥の平屋根が遊郭。 (※添付画像2枚目)
「遊郭 吉田」が朝鮮人専用ね。
無理やり引っ張ってきた「奴隷」に、女と金を与えるかっての。
女郎屋で遊ぶお金は持ってたってことでしょ。朝鮮人専用の遊廓にいた女は、同朋だったようです。言葉の問題なのか。
端島のことではないですが、朝鮮人徴用工の手記があります。(※添付画像4枚目)
日本人の未亡人とねんごろになって、しっぽりしてた朝鮮男もいたそうですよ。挺身隊少女とのロマンスも。どこが奴隷や、差別や。
以下、京基督教大学教授の西岡力氏 談
「朝鮮人徴用工は、低賃金で過酷な労働を強いられていた訳ではない」
「その実態がよくわかるのが、鄭忠海という朝鮮人徴用工の手記です。
1944年12月、鄭は広島市の東洋工業(現在のマツダ)に徴用され、克明に日記をつけたのです」。
鄭は、寄宿舎の新しさや新しい寝具に「まずまず」と満足し、食糧難の最中、広島名産の牡蠣や蜜柑等の豊富な食料に舌鼓を打ち、酒盛りも楽しんだ。
ノルマも無い小銃の部品工場に配属されると、巡査の初任給が45円の時代に140円という高給を取った。
それだけではない。「工場には、10代の若い女のコたちが“女子挺身隊”として全国から集まっている。日本の男は戦争に取られていないから、朝鮮人徴用工と女子挺身隊の間でロマンスが生まれるんです。鄭に至っては、戦争未亡人とできちゃった。夜中に未亡人の家に行くと、風呂と晩ご飯があって浴衣も置いてある。もっと酷い現場もあったとは思いますが、殆どの徴用は強制労働ではなかったんです」
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この朝鮮人徴用工の手記へのAmazonレビュー 抜粋
1944年末に徴用され日本に来た朝鮮人の手記。
強制的に連れていかれ、迫害、蔑視、冷遇、苦役に従事した話、とされる。朝鮮人強制連行は、黒人の奴隷みたいなもんだとよく言われるけど、実際この本を読むと「どこがやねん!」とツッコミたくなる。
だって日本人が朝鮮人に気を使っている様子がありありと書かれているから。
「戦争に巻き込んでしまいすまない。遠くからわざわざ来て働いてくれてありがとう」という感じ。
日本では楽な仕事と十分な食事と住まいが与えられ、好意的にしてくれる若い女子もいる。戦時下というのに、平和で和気あいあいと楽しそうだ。
誠実に仕事をするわけもなく適当にやりすごし、日本の敗戦と徴用解除の日を待つだけの日々で、稼いだ金を博打に注ぎ込んだりした。
食糧難でひもじさを体験する事もあったし、無駄な苦労もあったが、それは日本人も同様であった。蔑視もお互い様。
・・・・・・・・・・・・・抜粋ここまで
強制連行ではなくて「戦時徴用」ね、あっても。日本人と台湾人には
ずーっとあったけど、朝鮮人は戦争末期の数ヶ月間だけ。…-後略-
-転載ここまで-
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…軍艦島には朝鮮人労働者たちをもてなすための、女郎屋「吉田屋」があったのに! どこの誰が強制的に駆り集めた労働者に女性をプレゼント、その女性たちに支払うに足る給料を渡しますか?
日本政府はこの一点を精査して厳密な証拠を添えて世界中に拡散してやればよい。
佐藤地の発言は、当時の真実を見落とした失言であったと補填する以外にあるまい。
人気ブログランキングへ ※この件について更に詳しい話が見つかりました。
Change Our Worldさんより-
世界遺産登録反対を叫ぶ韓国よ、よ~く読め! 軍艦島に朝鮮人専用遊廓があった!
このGW、長崎県の軍艦島(端島)は例年以上に多くの観光客で賑わった。「実は、韓国からの観光客も結構来られました。皆さん、意外に感動して帰られます」(NPO法人『軍艦島を世界遺産にする会』理事長・坂本道徳氏)。軍艦島は『明治日本の産業遺産』施設の1つとして、ユネスコから世界遺産登録の勧告を受けた。正式決定は6月28日からドイツで開かれる世界遺産委員会の場だが、「油断は禁物。日韓外交戦の正念場はこれからです」と、“ヒゲの隊長”こと佐藤正久参議院議員が警告する。実際、勧告の出た直後から韓国は“世界遺産登録を推進する日本政府”を糾弾する国会決議を採択した。「世界遺産委員会の委員は21ヵ国。日本も韓国もメンバーですが、韓国のロビー活動が凄い。朴槿恵大統領は4月の南米歴訪で、委員のコロンビアとペルーに登録反対を訴えました。今も、大統領の親書を持った外交官が各国を回っている。勧告がひっくり返った例もあり、予断を許しません」(佐藤氏)。韓国が反発する理由は、例によって歴史問題だ。「23施設のうち7施設で、朝鮮半島出身者5万7900人が強制労働させられた」というのが韓国の言い分だが、果たしてそれは事実なのか?
……軍艦島では、1890年から石炭の採掘が始まった。産出される石炭は良質で、八幡製鉄所の原料炭として供給される等、日本の近代化の基幹的な役割を担ってきた。最盛期の1950年代には周囲1.2kmの島に5300人が暮らし、世界最大の人口密度を記録。だが、1974年に閉山すると島民が一斉に退去し、無人島となった。前出・坂本氏は、小6から高3まで軍艦島で暮らしていた。坂本氏が当時の生活を振り返る。「親父が炭鉱マンで、筑豊から移住したんですが、生活レベルが全然違いました。当時はまだテレビはあまり普及してなかったんですが、この島には殆どの家にテレビも洗濯機も冷蔵庫もあった。うちでも直ぐに揃いました。仕事はきつくても、給料は筑豊よりだいぶ良かったと思います」。住んでいたのは、軍艦島で最大規模の65号棟の高層アパート。6畳と4畳半に一家5人暮らしだったが、「当時の平均的な社宅はそんなものでしょう」と坂本氏は懐かしむ。商店街やパチンコホール等の娯楽施設も充実していた。
更に、1957年に売春防止法が施行されるまでは“遊廓”もあった。
「父親の話に因れば、3軒の遊廓があり、その内の1軒は朝鮮人専用だったそうです」(坂本氏)。
軍艦島に10年以上通い、元島民たちの話から遊廓の存在を確認したのが、『軍艦島入門』を刊行した黒沢永紀氏。
「遊廓といっても、堀で囲われた廓状のものではなく単体の店(つまり遊女屋)ですが、元島民たちは皆“遊廓”と呼んでいました。大正時代、既に島には遊廓が7軒あり、女性は20人くらいいたとのことです。1軒3人くらいの計算ですね」
昭和になってからは、島の南にある『南部商店街』と呼ばれる地域に3軒の遊廓があった。「1933年の長崎新聞に、遊廓“本田”の記事が取り上げられています。『炭粉に塗れた鉱夫たちの荒くれた心身を愛撫してくれる。これもまた、端島の持つ一断面である』と。
この“本田”と“森本”が日本人用の遊廓、そして“吉田”が朝鮮人専用でした。“吉田”は遊女も朝鮮人。
朝鮮人専用の遊廓を作った理由は、言葉の問題もあったろうし、何より朝鮮人労働者が多かったということでしょう。
何れにしても、朝鮮人も日本人と同じように遊廓で遊べたのです」。
フリーカメラマンの酒井透氏も、元島民の証言を得ている。「3軒の遊廓には10人くらいの女性が常にいたといいます。10代や20代の女のコではなく、ちょっと年端のいった女性が多かったらしい。2階に“ちょんの間”用の部屋が5~6部屋並んでいた。連れ出しは無かったようです」。
端島には、1920年代から多くの朝鮮人が働いていた。
仕事と高給を求めて自ら海を渡ってきた人たちだ。
中には密入国して島を目指す人もいたが、日本人警官は律儀に追い返していたという。
「1941年に太平洋戦争が始まると、その数は急激に増え、1943年には朝鮮人約500人、中国人約200人がいたという記録があります」(酒井氏)
戦局が悪化し、日本人の労働者が不足した1944年9月、国民徴用令に因って朝鮮人の徴用が始まった。
徴用は半年で終わるが、韓国はこれを強制連行と主張する。
その証拠として、「朝鮮人は危険な仕事を1日12時間もさせられた」(軍艦島で嘗て働いた韓国人)等と言うが、元島民の坂本氏が島の長老から聞いた話は違う。
「前線で石炭を掘る一番危険な作業には、必ずベテランが入るそうです。不慣れな者がやって事故を起こせば、後方の者も全滅してしまいますから。
そこに新米の朝鮮人を入れるとは考えにくい。危険で過酷な労働というのは確かですが、朝鮮人に限らず、日本人も同じ現場で働いていたんです」。
賃金も、日本人と同じように支払われていた。
食事も粗末だったと言うが、「日本人でもイモ1個とかいう時代なので、朝鮮人だけ粗末な食事だったというのは事実と違うと思います。
住宅だって、朝鮮人も日本人も同じような部屋に住んでいたんです」(黒沢氏)。……-後略-
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