強制労働は優遇労働でした②-朝鮮人は白米と焼き肉を食べ、おいしそうな匂いを漂わせた。日本人の中にはごちそうになる人も-山形新聞
- 2015/07/15
- 15:26

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韓流研究室さんより-
-以下転載-
突然現れた250人の朝鮮人労務者の食事は白米と焼き肉、強制労働とは程遠い印象だった
・2013/08/24 22:31
朝刊コラム【談話室】
山形新聞 2013/08/24付
▼▽戦時中に強制労働させられた韓国人の損害賠償請求訴訟で、新日鉄住金は敗訴が確定すれば賠償に応じる意向を示した。
強制労働は本県でも行われたと聞く。
このうち1カ所を取材し、意外な事実に驚いたことがある。
▼▽場所は天童市の越王山(こしおうやま)。
そこに戦争末期、日本軍と“朝鮮人”250人が突然現れ、トンネルを掘り始めた。目的は地下軍需工場造りだ。
空襲を避けて軍事物資を生産するために整備された。
ゼネコンの前身とみられる業者も何社か関与していたという。
今も工場跡が残る。
▼▽意外な事実とは朝鮮人の扱いだ。
軍は住民の自宅を改修し、同居するよう指導した。
住民が大根飯を食べている脇で
彼らは白米と焼き肉を食べ、おいしそうな匂いを漂わせた。
住民の中にはごちそうになる人も。
理由は分からないが、強制労働とは程遠い印象だったようだ。
▼▽逆に日本兵が労働を強制された例がある。
旧ソ連によるシベリア抑留だ。
県人含め60万人が連行され、5万5千人が死んだ。
全国抑留者補償協議会の初代会長は鶴岡市の故斎藤六郎さんだ。
過酷な作業を強いられた斎藤さんが望むのは恒久平和だ。
あらためて肝に銘じたい。
地元の方のBlogを見つけたのだが・・・
まだ所々、そのまま放置された穴が有って危険な個所が有るので具体的な場所を特定するのを憚っている様子なので当Blogでは詳しい地名は記載しない・・・
取りあえず、2つのBlog情報をまとめると
①250人の労務者は、仙台など県外から移動して来たらしく、ほとんどが朝鮮人で、近郷の者を含む一都日本人もいた。
②勤労動員や学徒動員ではないらしい
③近郷から働きにきていた日本人の証言によると
朝8時から夕方5時までの労働時間で(一部、交替制での夜間作業もあった)
賃金は通常の倍の金額が支給された
④当地の地主達は、農地を接収され資材置き場や労務者の飯場が数棟作られ50世帯ほどに分かれて生活していた
⑤地元史によると
戦後この労務者が村に後遺症として、いろいろの問題を村に残した。
〇〇地区から労務者世帯が完全に退去したのは
昭和四七年春である。
う~ん、
250人近い朝鮮人労務者が突然現れ白米と焼き肉の食事が支給され倍の賃金を貰い、労働時間はきっちり守られ作業をしていた・・・
そして彼らが完全に退去したのが・・・
終戦から、なんと27年後
何だか凄いミステリーですね。
戦時強制労働について研究しているサヨク学者さん達は敢えて、無視するのでしょうかねぇ????
以前から、地元紙はこの件を何度か取り上げているらしいのですがプロ市民や人権屋弁護士は調査に来ないのか?
ミステリーですねぇ・・・
-転載ここまで-
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※コメント欄より-
[]
強制連行と言いながら、脱走の可能性に対して考慮がない。それどころか、戦後になってもその場に居つく。この手の連中は往々にしてドイツを引き合いに出しますが、ドイツではそう言う例ってないじゃないですか。
08/25 07:47 By:DUCE
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………住民の中にはごちそうになる人も
日本人が、強制連行され奴隷労働を強いられていた朝鮮人からごちそうになるとはどういうことでしょうか?
この事は、先の記事で引用させてもらった「朝鮮人徴用工の手記」という本を読んだ人物の《…だって日本人が朝鮮人に気を使っている様子がありありと書かれているから。「戦争に巻き込んでしまいすまない。遠くからわざわざ来て働いてくれてありがとう」という感じ。…》という感想の記述に合致符合する。
私自身も松代大本営建設工事の話の所で書いたが、「国策(朝鮮人は高給優遇)は一貫しており、地方によって朝鮮人の扱い方が異なっていたとは考えにくい」という話の好例だと思う。
更に、戦後も27年間にわたり、何ら拘束もされず自らの意思で居着いていた。
これが韓国人が唱える強制連行・奴隷労働の実態であったようである。
今後も、この種の話は日本中のあっちからこっちから露呈してくると思われる。
当ブログでは、その都度掲載し、同時にマスコミや政治家政党へ送っていく。

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